「旅するクーネル」という移動販売カレー店
福岡県・佐賀県を中心にキッチンカーによるカレー販売を続けている人気カレー店がある。井上よしおさんと妻の文(あや)さんが切り盛りする「旅するクーネル」だ。時には山奥でのイベント出店、またある時は福岡市内での間借りという営業スタイル。1,000円という価格にこだわり、野菜や肉や魚などがワンプレートに盛りだくさんのカレーを提供する。
僕が初めて井上さんに会ったのは、2015年2月に開催された薬院にある「回」の15周年記念のカレーパーティの打ち上げだった。人当たりの良い、そしてなんともふんわりとした掴みどころのない人だなぁというのが第一印象だった。その後僕は、井上さんが移住してキッチンカーでの営業をしているという佐賀市三瀬までカレーを食べに行った。その時に食べた一皿のカレーが味も見た目も強烈に印象的で魅了された。優しく包み込むような野菜たちと主張するスパイスのバランスの良さから井上さんの比類ないセンスを直感したことを覚えている。
今ではどこに行っても行列が出来る人気店となったが、井上さんは10年前までは中央区大名で「食堂クーネル」という洋食居酒屋を経営していたのだ。それがどういう経緯でキッチンカーによるカレー販売をするようになったのか、そしてこれからどこへ向かおうとしているのか、その人生観を聞いてみた。
井上よしおさんの青春時代
井上さんは小郡市生まれ。中学生くらいからは音楽(特にロック)、映画、小説、漫画などが大好きな少年だった。人とのコミュニケーションが苦手で社会の中で生きていくことに不安が多かったが、絵を描いたり音楽の話をしたり好きなことで話が合う仲間がいれば、毎日が幸せに生きていけると気づいたのもその頃だった。その後、絵が得意だったことで母親の勧めもあり美術系の予備校を経て九州産業大学のデザイン科へ進学する。しかしそこでのめり込んだのは音楽だった。ハードコア・パンク系のロックに傾倒し気の合う友達3人でロックバンドを結成する。
「ロックミュージシャンになるんだ!」とロン毛でドレッドヘアにして意気込んで毎日音楽活動にあけくれた。しかしそうそう簡単に実を結ぶ気配もなく、とりあえずは賄いご飯を目当てに飲食店でのアルバイトを探した。それでも髪型が派手過ぎてなかなか飲食店のバイトも受からず苦労する。髪を切ることはロックミュージシャンとしてのプライドを捨てるも同然。それは出来なかった。そんな中、大名にあったタイ料理店「ジャミンカー」が「髪型は自由でいいいよ」と採用してくれた。辛い料理が大好きな井上さんにはこれまた嬉しい職場だった。振り返ればここが井上さんの飲食業への第一歩だった。
本人提供
「ジャミンカー」は社長が以前旅行会社も経営しており、旅人が集まる店でもあった。旅人と言っても高級な外国旅行を楽しむ人たちというより、バックパックで安く世界のあちこちを歩き回る個性的な人が集まっていた。外国人もたくさんいた。またまたこれも、井上さんがその後「旅する」ことが大好きになるきっかけになるのである。
大学卒業を迎えたが、就職はせずに「ジャミンカー」で働きながら音楽活動を続けることにした。同級生が新社会人になる4月1日、井上さんはインドや東南アジアの旅に出発した。インドへ行ったのは、「深夜特急」(沢木耕太郎著)の影響を受けたからだ。「深夜特急」は、インドのデリーからイギリスのロンドンまでバスを使って一人旅をしながら様々な人々や事件に遭遇するという小説である。
25歳の頃、バイトをしながらミュージシャンを目指す自分の姿に納得できず、音楽の道を諦め、生きていくために料理の道を選ぶことを決意。その後「ジャミンカー」を退職。「ガムランディー」のオーナーに引き抜かれ一緒に再びアジアを旅することになる。そして帰国後「ガムランディー」のオープニングスタッフとして正式にシェフとなる。
旅や外国への憧れが開花した井上さんはさらにフランス料理にも興味が出て、「日仏学館」に通いフランス語を学ぶ。その後もタイ料理での実績を積み重ねていたが、フランス料理への憧れを捨てきれなかった井上さんはフランスへ行きたいと思うようになる。飲食業界の友人たちがイタリアンシェフへの道を目指してイタリアで働いているのを見ていると、「俺にも出来る!!あいつがイタリアンなら俺はフレンチの世界で天下を取ってやる!」と闘志が湧いてきたそうだ。
28歳の時、50万円だけ握りしめてフランスへ行くことを決意し一旦上京。しかし東京で食べ歩きをしているうちにお金を使い果たし、東京で働いてもう一度資金を貯めることにした。フレンチの名店の門を叩き働き口は見つけた。飲食店での経験もあり「日仏学館」にも通いフランスの基礎知識は身に着けていたのでそこそこやれるという自信はあったと言う。
しかし、東京は厳しかった。その時代の飲食店の職場環境は過酷なものだった。休憩や食事をする暇もないくらい働かされる。しかし、それ以上に働くシェフの姿を見て驚愕する。技術的なことはもちろんだが、料理や仕事への執念も自分と比べると天と地ほどの圧倒的な差があった。数店舗で働いたがどこへ行っても状況は同じだった。井上さんのフランスへの夢はここで打ち砕かれる。井上さんは東京で大きな挫折を味わったのだ。
フランス料理で一花咲かせるという夢をあきらめた井上さんは再びアジアの旅に出る。何をして良いのか分からない。自分に何が出来るのかも分からない。自分探しの旅だったが、タイとマレーシアの国境近くで盗難に遭い帰国するお金もなくなるなど踏んだり蹴ったり。日本に連絡をとり親にお金を送ってもらいなんとか帰国。親からもこっぴどく叱られ、泣きっ面に蜂状態だった。
大名「食堂クーネル」の開業
人生の道に迷い続ける井上さんに友人が言った。「お前はそもそもフランス料理人になりたかったのか。お前はお前にしかできない人に喜ばれる料理を作れば良いじゃないか」と。その言葉に自分の進むべき道を照らす一筋の光が見えた。
30歳の時、大名に「食堂クーネル」を開業することを決意。今までの飲食業での経験を生かして10数枚の事業計画書を手書きで作り上げ金融機関から500万円の融資を受けた。メニューはイタリアン、フレンチをベースにした洋食居酒屋。ジャンルにこだわらず客が食べたいもの、喜んでもらえるものを作った。そのうち、井上さんのご飯が食べたいという客で賑わうようになった。いつも笑いがある店だったそうだ。「注文があれば出来るものはなんでも作りました。お客さんに育てられた店でした」と当時を振り返る。のちに妻となり井上さんを支え続けることになる文さんもここの常連客だった。
順調に繁盛し借金も完済した。そんな時、師匠と仰ぐ登山家の先輩が山で亡くなったという一報が届いた。それを機にさらに人生を見直すことになる。40歳の時、「食堂クーネル」は10年の幕を閉じることにした。また人生の旅に迷った井上さんは文さんに「店を辞めて世界一周旅行をしたいんだけど」と相談する。文さんはすぐに一言、「いいよ」と返事したそうだ。
夫婦で行った世界一周旅行で変わった人生感
「食堂クーネル」時代の貯金を使ってトータル1年間にわたって22カ国を夫婦2人で旅をした。アジアからヨーロッパ、そして南米まで。2度目の「深夜特急」のような旅だった。そんななかで世界の料理にはスパイスを多く使用する国や地域が多いことに気づく。特にスパイス料理が多いアジア圏には健康的な人が多いと思うようにもなっていた。それはのちのカレー店開業にもつながる。
「世界中で会う人々は人種や国籍は違ったが、みんな同じ人間でしたね。親がいて子供がいて、家族があって友達がいて。そしてみんなが寛大でした。そして何より自然や環境について考えさせられる時間でしたね。日本に帰って普通に社会に溶けこんで働けるのか不安になりましたよ。それくらい自由でした」と振り返る。
世界一周から帰ってきた井上さんは、安全で安心で安くて美味しい料理を作りたいと思うようになっていた。元々「食堂クーネル」時代から野菜作りには関心があったが、この辺りから自給自足、有機栽培、自然農法、循環型社会などについてさらに深く興味を持つようになり猛勉強を始める。若い頃に音楽に傾倒しバンド活動にあけくれた頃のように、40歳を過ぎて自分がのめり込めるものを再び見つけたようだったという。
そんな中、知り合いの紹介で佐賀市三瀬に移住を勧められる。そこへ行けば畑も借りられて農業も出来るらしいのだ。帰国してからは朝倉市にある実家に居候していたが、いつまでも両親に甘えるもの難しいということで三瀬への移住を決意。三瀬では周りの農家さんに支えられながら野菜作りに取り組み、農業学校にも通った。そして、今自分たちにできることは自分たちの作った野菜や地元の食材を使った料理を提供することだ、と先が少し見えて来た。
飲食店を開業するならもともとタイ料理などは得意だったしインドやアジアでスパイス料理をたくさん食べて来たので、カレー店が良いのではないかという考えはあった。特に農業学校で野菜のミネラルやフィトケミカルなどのパワーを再認識したこともあり、「色鮮やかな野菜をたくさん使ったスパイスカリーをみんなに食べてもらいたい!」と心が決まった。
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キッチンカー「旅するクーネル」スタート
野菜作りや健康、環境に興味を持った末に始めることになったカレー店。店舗はもたずに中古の軽自動車を改造したキッチンカーでの営業スタートにこぎつける。世界一周の後に始めたキッチンカーなので屋号は「旅するクーネル」とした。42歳の時だった。
「食事とは単に空腹を満たすだけではない。疲れた人を食事で体も心も癒したい。地元の旬の野菜やスパイスを使って人のためになるカレー作りを目指そう、そんな思いでした」と井上さん。野菜は自家栽培したり周りの農家さんからもらったり地元の直売所で買ったりした。一般の小売店では販売できない規格外野菜や、普通は家庭では使わず捨ててしまうようなところを工夫して使い、とにかく捨てるものを可能な限り減らすことを心掛けた。まさに今でいうところのSDGsである。
井上さんが作るカレーは美味しいだけでなく、とにかく色鮮やかに盛り付けられている。野菜もいったい何十種類使ってるのかと驚くばかりである。量もしっかりあり大人の男性でも満腹感がある。それでいてワンプレート1,000円で販売している。「こんなに手間暇かけてこんなに安いと大変でしょう」とみんなに言われるが、井上さんは「安全なものを安く食べてもらいたいんですよね。もらいものの野菜や、捨てるような部分も使っているので原価はそこまでかかってないんですよ」という。いやいやそれでもどれだけ手間かけてるんだというのは、見たら分かるワンプレートだ。
井上さんが共感する考え方に「ダウンシフト」という生き方がある。いわゆる車のギアを一段下げることから転じて、収入が減っても少ない消費で心にゆとりのある生き方をしようというもの。井上さんも「稼がない自由」があってもいいんじゃないかと考えていた。「旅するクーネル」は店を持たず自分の人生のスピードに合わせた営業方針でずっとやってきた。人から安すぎると言われても贅沢しなければこれで十分やっていけると、ワンプレート1,000円というスタイルを続けて来たのだ。
そんな井上さんのカレーは徐々にあちこちで評判になった。企業主催のイベントやグルメイベントなど、呼ばれればキッチンカレーでかけつける。出店すれば行列が出来るし完売必至だ。出張販売が無い時は、三瀬の国道263号線沿いの駐車場を借りて営業した。さらに友人の廣田さんが経営する福岡市中央区高砂「カレーNADO」の定休日を借りて間借り営業も時々している。月に数回しか出店しない福岡市内での営業ということで、これも評判になり行列が出来ている。
これから井上さんはどこへ旅するのか
「旅するクーネル」を始めてもうすぐ8年。その間に誕生した長男はもう5歳。子供が出来ると考え方は少し変わった。一番守るべきものは子供である。自由に自然に生きていくという理想も少しは崩す必要が出てきたように感じる。「ちょっと普通の親になってる気がする」と井上さん。と言いながらも自分の子供だけでなく次の世代の子供たちのことをさらに考えるようになったらしい。現在は長男の生活環境も考えて隣の富士町に引っ越し、築150年近い大きな一軒家を借りて家族3人で暮らしている。
ここ数年、原油高などを要因とする原料や資材の高騰はすさまじい。「ずっと続けて来た1,000円でのワンプレートカレーもそろそろ限界に来てるんですよね。『旅するクーネル』としての僕の役目は終わりを迎えようとしているのかもしれない」と語る。家族が増え人生の旅の計画も少し修正が必要になったようだ。
井上さんはとっても自由でニュートラルな人だ。先入観や偏見を持たず、慣行やしきたりには疑問をもち、その意味を理解し納得しないと重要視しない。自分自身のことも常に見つめなおし続けるために自分に自信がもてないということがあるのかもしれない。そこが井上さんの一番の個性でもあるし弱さかもしれない。
そんな井上さんだからいつまで今の移動販売をしているかは分からない。数年後、飲食店をしているかどうかも疑問だ。家族で外国に移住しているかもしれない。山の中で学校をつくっているかもしれない。何があっても不思議ではない。なんでもやってそうだ。とにかく人間というものは自由なのだ、そう思わせてくれる井上さんだ。
数年後、「旅するクーネル」は間違いなく伝説の旅するカレー屋になっていると思う。興味がある方は早く食べておきましょう。彼がいつまた新しい人生の旅に出てしまうか分かりませんから。
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